小児科のあれこれ

地方の小児科で感じたこと、勉強したこと、本やグッズのレビューなど

思い出話(小児がん中心)

私は小児がんを専門にしていません。が、数年前までは小児がん拠点病院に勤務しており治療に参加していました。twitterのやり取りを見ながら、また、やり取りをしながら色々思い出したことがあるのでいったん綴っておこうと思いここに書いています。

最初の出会い

 小児がんの人と初めて出会ったのは中学一年生の時でした。その患者さんは同じクラスの同級生でした。たびたび頭痛を訴えており、自律神経失調症と言われていたそうです。しかし脳腫瘍であることが分かり、手術もしましたがその年に亡くなりました。

医師として診断した最初の患者さん

 その後医学部を卒業し、初期研修を経て小児科医になりました。出身大学は小児がんの診療もしていましたので、学生の時の臨床実習などで小児がん患者さんとのふれあいはありましたが、深く関係はしていませんでした。

 私が小児科医として最初に赴任したのは、所属した大学医局では一番ハードな一般病院と言われている病院でした。24時間365日の小児救急診療をしながら、1000g未満の未熟児も治療するNICUも持っていました。地理的問題と病院の方針とで紹介の電話や救急車の電話に「わかりました」としか言ったことがありません。大都会なら大病院がやるような内容ですが、田舎の病院でしたので小児科医は10人もいませんでした。幸い問題となることはありませんでしたが、はらはらしたことはありました。しかし、昔はもっとスタッフが少なかったという事実にぞっとしていました。地理的に大きな病院に簡単に紹介できる立地ではなかったことから現在なら専門病院に紹介するような症例でも診療していました。しかしそれでも小児がんは診療していませんでした。実はもっと昔は白血病も治療していたそうですが…

 そんな中で初めて診断した小児がんは脳腫瘍でした。休日の救急外来で軽症患者さんをひたすら診ていた時に、突然片手の力が弱くなったという患者さんがいました。よだれも出るようになったとのこと。いわゆる片麻痺という状態で、頭の中の病変が疑われます。頭のCTを撮影したところ、出血を認め脳外科の先生に相談しました。返答は「脳腫瘍かもしれない」でした。腫瘍だとすると非常に予後の悪いものとのことでした。結論から言うと腫瘍から出血していたのですが、MRI含むその後の検査でも腫瘍か良性病変かが判定できないとのことでした。小児脳神経外科の本を購入し、文献も色々調べましたが、腫瘍であった場合の予後の悪さに愕然としました。その後、その脳外科の先生が信頼する他県の小児病院の脳外科に紹介し転院することになりました。返事は脳腫瘍でした。緩和目的の放射線治療しかないが、それならば治療は近くで受けても同じだから私がいた病院で行うという話になったと脳外科の先生がおっしゃいました。結果、放射線治療の先生も初めてという小児の放射線治療が開始されました。私はその子を眠らせる役でしたが、その子は強く、途中から眠らせる必要がなくなったのでいったん退院して外来で治療を継続することになりました。

 その病院ではまずいない病気でしたので看護師さんたちもすごく気にはかけてくれていました。Make a wishという活動を知ったのもその時でした。最初はアメリカで発足した難病の子供たちの夢をかなえようと活動している団体でした。私はどうしようもない思いから、この団体のことをご家族に説明し、Make a wishに数万円を寄付しました。病院のお祭りでも募金箱を設置しました。

www.mawj.org

 そして同じ年に、数日前に頭を打ったが片方の手足が動きにくくなったという患者さんが私の外来に来ました。慢性硬膜下血種という頭部外傷後ゆっくりと血がたまっていく病気を考えてCTを撮影しました。結果は同じ脳腫瘍でした。脳外科の先生は変わっていましたが、放射線治療の前例があるとしてそのまま治療を開始することになりました。

 二人とも今は亡くなっています。そういうがんでしたが、自分はしっかりと選択肢やご家族への受け入れについてサポートができていなかったと後悔しています。同じ県の大学病院は現在では小児がん拠点病院となっています。上司に強く主張し、他科の先生に抗い、そこでの治療を強くすすめるべきだったと今となっては思っています。

大学病院での診療

 その病院の後に他の病院も経験しました。小児がんで最も多い白血病を何人か診断しましたが、専門病院に紹介したので治療はしていません。そして色々あって大学病院に移りました。

 その大学病院は小児がん拠点病院になっており、入院患者の多数派ががん患者でした。また、他県も含めたがんを診療している病院との会議なんかもありました。他にも代謝疾患や膠原病など希少疾患も担当しました。

 私が最初に担当になった患者さんの中にはかなり末期の方も多く、最初の方は毎月のように担当患者さんが亡くなっていました。他県から治療に難渋するという患者さんが転院して来たり、ある領域では北陸、関東、関西、中国、九州など各地から患者さんが集まっていました。それまでにほとんど輸血を指示したことのない私は、血液疾患はこんなに輸血するのかというほど輸血指示を出しました。輸血製剤の担当者によると、ある一時期では院内でも最も輸血製剤を取りにいった医師だったそうです。特に造血幹細胞移植(骨髄移植、臍帯血移植、末梢血幹細胞移植)前後の患者さんは自分で血液細胞を作ることができないのでかなりの頻度で輸血することになります。

 学生の時はこういう領域は怖いと思っていました。そういう思いから小児科を避ける学生や研修医は結構いると思います。しかし、病棟が悲壮感でいっぱいというわけではありませんでした。もちろん、あまりの不幸に同情を隠しえないような境遇の方もいらっしゃいましたが… そういう雰囲気づくりに医師や看護師以外のスタッフの力というものも大きいように思いました。チャイルドライフスペシャリスト、臨床心理士、保育士、院内学級の先生などといった方々です。

 チャイルドライフスペシャリストというのは日本ではマイナーですが、現在となってはこども病院やがん拠点病院にはだいたいいるようになった職業です。チャイルド・ライフ・スペシャリスト協会HPによると

チャイルド・ライフ・スペシャリスト(Child Life Specialist:CLS)は、医療環境にある子どもや家族に、心理社会的支援を提供する専門職です。子どもや家族が抱えうる精神的負担を軽減し、主体的に医療体験に臨めるようサポートします。1950年代から主に北米で発展してきたもので、現在は、米国に本部を置くAssociation of Child Life Professionals(ACLP)が資格認定をおこなっています。

となっており、アメリカでは外来、病棟などたくさん活躍しているそうです。でも、日本の資格ではないのでその身分はあいまいなのが現状です。日本では養成できないので、みんなアメリカに留学し、そこで勉強、研修し、資格を取得。定期的に渡米して資格の更新を行っています。正直、医師になるより断然ハードルが高いです。アメリカではチャイルドライフスペシャリスト用のグッズが色々開発されており、検査の説明なんかもしてくれます。チャイルドライフスペシャリストさんがいない施設では看護師さんなんかがそういった取り組みをしていることが多いようですが、専門家に言わせると間違った接し方をしていると思うこともよくあるそうです。

childlifespecialist.jp

 他にも緩和ケアチームも小児対応をしてくれますし、放射線科もできるだけ小児の鎮静(薬で眠らせること)をしないで済むように協力してくれました。それまでに働いた病院とは異なり、入院している患者さんの過半数は何カ月も入院する患者さんなので、同じような病気に苦しむ患者さんやそのご家族と接するようになり孤独な戦いをしないで済むというのも利点でした。ご家族同士が仲良すぎてスタッフの評判の情報交換も積極的にされていたのには若干困りましたが…

 色々な難病に出会い、難治がんに当時その病院はもちろん、全国的にも限られた施設でしか行っていなかった特殊な治療をおこなったり(幸い上手くいきました)、風邪で死にかけた患者さんを前にICUで途方にくれたりしながら大学病院での日々は過ぎていきました。悲しいことや、大学病院ならではの非合理的制度にいらだったりもしましたが充実した日々を過ごせたと思います。

 小児がんや希少疾患の患者さんはできる限り少なくとも一度は専門医の元を受診して直接相談した方が良いと思います。時間も労力もお金もかかりますが、一生の問題と考えると安いものです。単に受診するだけならセカンドオピニオン代、旅費、滞在費含めても10万円超えるかどうかというところかと思います。

 そして、小児がんや希少疾患の患者さんたちが診断に至るまでにどういう経緯を経たかが分かったのも大きな収穫でした。感想としては、がんになれていない医師はがんを見逃しがちということです。逆に大学病院で長くやってた神経の先生が神経症状から華麗にお腹の中の癌を見つけたということもありました。現在、またがんを治療しない病院で働いていますが、がんや希少疾患の見逃しが怖いので他の医師より検査項目が多めということは自覚しています。厳密にいうと医学的にはそれほど正しくはないのかもしれません。しかし、一般小児科の問題は多量の軽症患者さんを診療することによる「軽症であろう」という決めつけだと思っているので、これからも診療を続けながら自分の中でのバランスを作っていけたらと思っています。